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元ゴールドマンサックス社員でJ史上最年少社長が語る『スポーツクラブがスポンサーに売るべきものは共感』と語る理由

皆さま「スポーツを通じて人、街を盛り上げる」という熱い想いをもって活動されています。
本日三上様のお話を通して、何かひとつでも持って帰っていただけますと幸いです。

元ゴールドマンサックス・J史上最年少社長だった三上昴氏の経歴

――三上様: はい、ありがとうございます。三上と申します。
今日はお集まりいただき、ありがとうございます。本日のお話が少しでもお役に立てればと思います。
また僕もみなさんから教えていただければと思いますので、よろしくお願いいたします。
僕は今、淡路島の関西リーグのアマチュアクラブにおります。そこの経験も含めて、お話できればと思っております。
改めて自己紹介をさせていただきます。僕は1987年に生まれて東京で育ちました。その後、筑波大学入学後、サッカー部に入部しました。2012年に新卒でゴールドマンサックスに入社して2018年から当時J3だったFC琉球というクラブに入り、2019年の6月に当時31歳で代表取締役社長に就任しました。

2020年に沖縄を離れたあとは自分でスポーツ関連のコンサル会社を立ち上げて、現在は淡路島のアマチュアリーグのクラブに経営層として関わらせていただいております。

僕はですね、Jリーグができた時にサッカーをやっていて小学校一年生だったということもあって、ものすごいサッカーブームの中で育ちました。 みんな自分がどこのファンで、どの選手が好きだっていうのが、はっきり言えた時代だったので、サッカーのものすごい熱量の中で育ったわけです。 筑波大学に在籍していたころは、グランパスやフロンターレで監督をされていた風間八宏さんが監督だった時代に、 僕は選手としてサッカーをさせていただきました。 私はプロサッカー選手にはなれませんでしたが、社会人になっても「プロになった同期に負けたくない」という気持ちが強く、かなり厳しいと言われているグローバルな会社、それも証券会社に入れば、キャリアも自分も成長できるんじゃないかという思いで、あのゴールドマンサックス証券会社に入りました。

これは余談ですが、僕が会社を辞めてから二年後ぐらいに僕の先輩が石原さとみと結婚したんで、 「あ、もうちょっと残っていれば、そんなことができたのかな」なんて、そんなくだらないことを思ったりもしています(笑)。 その後FC琉球という沖縄のサッカーチームに関わらせていただきまして、僕が2018年から2020年には小野伸二選手がチームに在籍していました。

小野選手との接点を持つことができた、という意味ではこの舞台でいろんなことを経験させていただいた沖縄時代だったな、と思います。
先だってのワールドカップでものすごく活躍した三苫選手は、筑波大学の後輩にあたります。彼を含めていろんなあの人材がいたので、サッカーの高いレベルだけではなく、大学時代にさまざまな経験をさせていただきました。
大学入学当初は寮に入っていました。ノルウェーの刑務所と比較されるほど、古くてシンプルで「ノルウェーの刑務所の方が綺麗なんじゃないか」といわれるほど環境は良くなかったんですね。
ただ僕は「住環境の良し悪しは大した問題じゃない」ということに気づきます。大学一年生で筑波大学のサッカー部に入って、ものすごい幸せな時間を過ごした、という経験があるからです。18歳でプロサッカー選手を目指してみんなと切磋琢磨する時間は住環境の良し悪しなどもんだいにならないほど、楽しい時間だったんだなということに、改めて気づいたんです。
大学卒業後は証券会社に入社したんですが、そこはもう本当にものすごく厳しい環境で仕事をしていました。入社当時の上司で女性の部長がいましたが、その方から「入社してから三年間はすべてを忘れて働きなさい」と言われました。

「令和の今、こんなこと言っていいのか」と、今いうと問題になりそうな発言ですが、そのくらい高いレベルで仕事に集中することを求められたんです。新卒の営業で採用されたのが2名しかいなかったので、最初から期待されてある程度の高い能力を求められる環境でした。そういったこともあって、証券会社に勤めていた時代はかなり厳しい時間を過ごしたかなと思っています。
ただ待遇は良かったです。海外の研修行くときはビジネスクラスに乗せてもらったり、ええ、当然のらせてもらったり香港に出張に行くときは、良いホテルに泊まらせてもらったりしました。

三上氏の人生の転換点は『ロシアワールドカップ』

実際、その当時、学生や知り合いに「どんな仕事してるんですか?」って聞かれたときは、「債券や株式を通じて運用のご提案をさせていただいてます」と話していました。一方で本当に悪い状態のときは「どんな仕事してるの?」と聞かれたとき仕事の内容ではなく会社名で答えてしまうほど、僕の中であんまり良い状態ではありませんでした。こう考えられたのは、退社から時間が経って、のちにふりかえったときにそう思えた、ということなのですが、なんかそんな時代を過ごしました。
ただ仕事はハードなものの待遇はよかったので、新卒三年目の26歳ぐらいの時にはタワーマンションに住んでいました。タワーマンションに住んでたんですけど、最初はやっぱりね、高いところに住んで「東京タワーが見える」とかって言っていましたが、慣れてくると「眩しい」となりカーテンを閉めてしまっていました。
子どもが生まれたときに「港区には土がない」と改めて気づくわけです。コンクリートですべてを固められて、遊ぶ場所がまったくないんですよね。そのとき「この生活環境では、生きて行く上での力がつかないのではないか」と徐々に思い始めたんです。
子供ができて、いろんなことを 感じさせてもらえるように なってきましたね。さらに気づきをくれたのが、筑波大の後輩たちの活躍でした。三苫選手が大学2年生だった時に、筑波大学が天皇杯でものすごく快進撃を見せたことがありました。
それこそアビスパ福岡に勝ったり、ベガルタ仙台に勝ったりしてベストエイトまでいったんですね。大学生がジャイアントキリングをみせてプロに勝つのを見た時に、大学生の活躍が、ものすごく格好よく見えたんです。
そして「あれ、自分って何してんだっけな」っていうのを徐々に考えるようになりました。一番大きなきっかけは、2018年のロシアワールドカップです。
年代的に同世代の長友選手や本田圭佑選手、内田篤人選手、槙野選手らがあの身一つで世界と戦っている姿を見て「自分はそういう”戦う”感覚を求めて外資系の証券会社に入ったのに、なんか進んでる道がちょっとずつずれてきている」ということを、感じるようになりました。
ロシアワールドカップのときも日本は結構活躍して、ベルギーを最後まで追い詰めたため「感動ありがとう」という状態に世間がなっていたとき僕は「悔しい」じゃないですけど「自分はここで何をしているんだろう」という感覚に陥っていました。
そのときから「環境を変えてみようかな」と思うようになりました。
大学時代を振り返ると、決して良いとはいえない住環境であっても幸せな日々を過ごしていたのに、例えばタワマンとかいいホテルで出張できるとか、そういうことにあの自分のこう幸せを見出してしまっていたことに気づいたんですね。
「自分が本当に幸せを感じる、心豊かに生活ができる部分とは何か」と考えたときに「会社を辞めよう」と思いました。生活環境や頭で考えた幸せはちょっと一旦脇において、自分の心の行く先はどこなんだろうと。心に忠実に考えてみようと思ったとき、スポーツ界、特に自分が大好きなサッカーを仕事にすることにチャレンジしてみようと思ったんです。
僕はFC琉球に行くことになるんですけど、当時の社長の倉林さんに出会う機会がありました。

そのときFC琉球はJ3からJ2に昇格する過程だったため「上を目指すために力を貸してほしい」という声掛けをいただきました。「社長をやってみないか」という話もあって「これ面白いなと思ったわけです。

当時僕は30歳で「この流れに乗らなかったら一生サラリーマンのままだぞ」という思いもあり「やってみるか!」という気持ちで沖縄に行きました。 31歳でJリーグの社長をやらせてもらって、史上最年少社長という記録が残っているので、使えるうちは使っていこうかなと思っています(笑)。
僕は今年で36歳になります。濃い時間は沖縄の社長になってからの五年間で過ごしてきたかなと思います。
沖縄には新聞社が二社あるんですけど、その中でこういった(下図)コラムを書かせていただいたりしたこともあります。

いろんなものを通して、皆さんに知っていただくいい機会になったので、自分の思いをこう発信することで、自分も学ぶものや得るものが多かった沖縄の二年間でした。
僕が社長だった当時、あのVファーレン長崎の社長がジャパネットの高田明さんでした。
当時あの社長交流会みたいな会を月に一回やっていて、当時高田さんにものすごくくっついて、いろんなことを学ばせてもらいました。

いまだに連絡は取らせてもらっていますが、高田さんからは「今を生きなさい。どんな選択をしてもいいけど、自分が今どういうことを思って、どういう心持ちなのかっていうことに正直に生きなさい」っていうことを教えてもらいました。
サッカーチームの社長をやらせていただいたことで、こうしたいろんな方に出会えて、いろんなことを学ばせていただいた時期でした。そういった「今を生きる」経験を30代の前半にできたのは僕にとってすごく良かったところです。

FC琉球社長時代に経験した『スポンサー営業の壁』

僕が当時沖縄に行ってからどのような提案をしていたかについてお話していきます。
2つほど具体的な例を挙げると、僕は外資系の証券会社で営業をしていたので、自分の営業には自信がありました。僕が営業の提案をすれば、決まるだろうと思っていたんです。今思うと浅はかな感覚でしたね。実際、当時の僕がどのような提案をしていたかというと、これが一つ目です。あの沖縄の泡盛というお酒を皆さんご存じだと思います。

沖縄には47の酒造があります。有名なところでは残波とか菊の露とか久米仙ですね。僕は泡盛の一つ一つの酒造ごとじゃなくて、あの全部の酒造で泡盛自体を盛り上げることがいいんじゃないかと思ったわけです。
当時その酒造組合が、海外輸出プロジェクトを始めていたので「じゃあ僕らサッカークラブが泡盛を流行らせよう、としました。例えばそのハイボールのように、泡盛と炭酸を合わせたアワーボールという飲み方を流行らせよう、と酒造組合に掛け合いました。

この泡盛という共通ロゴを酒造組合とスポーツクラブが作って、認知度を高め、大事な文化を背負って戦うことが大事なんじゃないかという提案をしたわけです。
もうひとつは28種類ある沖縄の伝統的農作物、例えば紅芋、へちま、ゴーヤを昔の方々は日常的に食べていたから、沖縄は長寿って言われています。しかし今はファーストフードが流行ったり車社会になって運動しなくなったりしたために、健康寿命がものすごく下がっているのが沖縄の社会課題だとわかりました。そこで琉球大学と組んで、例えばアスリートがヘルシー弁当として沖縄の伝統的農作物が豊富に入ったものを食べたら、PRになるんじゃないかという提案をしました。

僕、いまだにこれ結構良い提案だな、と個人的には思うんですが、結果はびっくりする惨敗でした。もうほとんど刺さりませんでした。僕が一生懸命提案していても、相手の反応はまったく、と言っていいほどありませんでした。それこそもう全然、盛り上げアドバイザーになってなかったんです。「え、なんでだろうなあ」と。刺さらない理由に気づくまでに3か月ほどかかりました。

スポンサー営業に必要なのは『Why・なぜやるのか』

皆さん、このゴールデンサークルという考え方をご存じでしょうか?
僕の理論ではなく「ゴールデンサークル理論」は、サイモンシネックというマーケティングの教授が提唱した考え方です。
僕はこの「ゴールデンサークル理論」に納得したとき、今回の提案が刺さらなかった理由に気づかされました。サークルが3つ引いてあって、一番真ん中が「Why」。なぜで2つ目が「How」どうやって、で一番外側が「What」です。

これは例えば「どんな仕事をしてるんですか?」という質問をされたとき僕はゴールドマンサックス在籍時にどう答えていいかというと「債券株式を通じての運用のご提案をしています」、と要は一番外側の「What」、何をしているかを答えていました。

「どんな仕事をしているんですか?」って聞かれた時に、例えばこの皆さんが知ってる世界的な企業のNikeや、パタゴニアでいうと、Nikeならアパレルで、Appleならパソコンのメーカーだよねって思う人もほとんどいないと思います。
なぜならNikeやAppleはメーカーやアパレルブランドだったところから、すでに存在を超越した企業になっているからです。
それはどういうことかを説明した時に、ゴールデンサークル理論が当てはまります。例えばAppleはもともとパソコンのメーカーですが、今はもうタブレット、ケータイ、時計、イヤホンも売っています。 これはもうパソコンのメーカー以上の存在になって、一般に根付いているんです。

一般的なアプローチであれば、素晴らしいスペックのパソコンが誕生しました。
美しいデザインで動画の編集もできてストレスなくサクサク動かせます、というアプローチをすることになるでしょう。これはゴールデンサークルの「外側」からのアプローチです。

しかしAppleは「私たちは世界を変えられると信じて努力しています。
その努力の結果、美しいデザイン、動画編集もストレスなくサクサク動かせる素晴らしいスペックのパソコンが誕生しました。いかがでしょうか?」 というアプローチをしています。要はAppleはゴールデンサークルの真ん中「Why」から「自分たちはどういうものを背負って、どういうモチベーションで働いているか」に強くフォーカスしているわけです。
彼らが作った「Think Different」というCMも「違うものの見方で世界を変えよう」という彼らのテーマを表現したものでした。

そういう意味から言うと、それが例えばパソコンであろうがイヤホンであろうが、携帯であろうが何でもいいんです。そういう意味ではAir PodsやiPhoneがいろんなものを変えてきたという彼らの自負にもつながっているのかなと思います。

これは「何をしてるかなんてどうでもいい。なぜそれをしてるかで人々は心を動かすんだ」という言葉です。僕はこの言葉がしっくりきて、提案していた泡盛のアワーボールや泡盛を背負いたいとか、あの琉球の野菜を使った弁当を作りたいとかっていうのは「今何をしたいか」であったために人の心が動かなかったんだ、ということに気付きました。
例えば僕が沖縄の人のために、とか、沖縄のためにっていう言葉をどれだけ強く思えて、どれだけそれを強く伝えられていたかどうかって振り返ったとき、ほとんどやっていなかったんです。スポーツビジネスはやりたい人が多い世界なので、どうしても「何をしたい」にフォーカスされがちで「何をしたい」に考えが行きがちになってしまいます。
実は「なぜそれをやりたいのか」に立ち返った時に「どれほどまで強い情熱をここにだせるか」がかなり大事なんだなということに気づきました。

その一例がレノファ山口というクラブでの経験です。レノファ山口は当時J2で琉球と同じカテゴリでした。僕が沖縄の対戦相手として山口にアウェイで行ったとき、向こうのスポンサーの方々が僕を案内してくれたんです。「スタジアムってこうなっているんだよ」とか「山口はこういう街で」「こういうサポーターがいるんだよ」、と。
これは一般的に考えて、あり得ないことです。スポンサーはお金出している立場なので自分たちはVIPルームで優雅に座ってたりされるチームが多いんですが、レノファ山口はスポンサーもクラブもサポーターも、同じラインに立っている感じだったんです。

サポーターもスポンサーも、お金を出しているんじゃなくて、ともに活動しているパートナーなんだな、と気付きました。だからレノファ山口は商品とか、広告を売っているのではなく、クラブに対して強い思いに共感してもらっているんだなと理解できたんです。
だからこそ、メインスポンサーの方が僕を案内してくれたりするわけです。クラブに対して強い共感や強い愛情を感じました。「あ、なるほどな。スポーツってこういう温かさや、共感を作れるんだな」ということを体感して学ばせてもらいました。
さらにコンサドーレ札幌が一度、債務超過に陥りかけた時にスポンサーがみんな出資して助けてくれた時の直後の試合で、サポーターが掲げた言葉があります。

例えば「乾杯はサッポロクラシック」とか「空港まではJR」「日本の翼、札幌の翼 JAL」とか横断幕が掲げられました。
これはクラブが意図や企画したわけではなく、サポーターが協賛してくれた企業への思いをくんで、こうしたものがスタジアムで表現されたわけです。これが自然発生的に出てくる空間は、やっぱりクラブへの共感が生んだ世界観だと思います。「俺がしたい、あれがしたい」では、この空気感をスタジアムに醸し出すことはできないんだなあということを 感じました。
最近の例で言うと、僕がTwitterでJリーガーのスパイク提供について発言したことがありました。これはどういうことかというと、最近はJリーガーもスパイクを提供されることが減っています。

昔、例えばJリーグ発足当初だったらほぼ全員がどこかのメーカーからスパイクの提供を受けていたんですが、最近はそれが打ち切られている、という問題があります。Jリーグになって全員プロのサッカー選手なわけですが、まあ自分たちでスパイクを買っているんですね。一方で最近はサッカー系のYouTuberがスパイクの提供を受けている例があります。もちろん動画で紹介してくださいとか、いろんな案件があるのは理解できます。ただなぜこのような事象になっているのかを考えてみました。

僕の沖縄時代の知り合いに『REGATEドリブル塾』っていうチャンネル登録30万人(2023年4月時点37.8万人)ぐらいのYouTuberがいます。その今流行りの『WINNERS』のメンバーでもあります。彼らサッカー系YouTuberはスパイクの提供を受けている、という現実があるわけです。サッカーの実力で言うと、もちろんプロに比べたらそんなに高くはないですし、社会人チームでやってたぐらいのレベルです。
じゃあ、なぜ彼らがスパイク提供を受けることができて、プロの選手たちがスパイクの提供を受け入れられなくなってるか。
彼らはサッカーを経験するなかで『傷ついている』選手が多いんです。例えば『REGATEドリブル塾』の2人は、中学校まではサッカーが大好きだったと。 ただ高校に入って、まあ練習が厳しいし、古風なトレーニングの中でサッカーをやることになりました。大学まではサッカーで進学したんですが、大学二年の途中でサッカーを辞めています。
サッカーを辞めることになったときに「自分たちが大人になったとき、サッカーが好きな子ども達に、サッカーを嫌いになってほしくない」と、サッカーを楽しむものだということを伝えたい、という思いが、サッカーYouTuberとして活動する彼らの根底にあるんです。
彼らは今YouTubeで『ドリブル塾』を銘打っているだけあって、ドリブルテクニックとか、試合では使わないだろうみたいな技も結構やっています。サッカー界からは「そんな技、試合で使わない」とか「そんなサーカスみたいなことやってる場合じゃないぞ」みたいなことを言われることもあります。

でも彼らはそういった『試合では使わないテクニック』を教えたいわけじゃなく、子ども達にサッカーを楽しむきっかけを作りたいと思っているんです。
彼らの方がゴールデンサークルの真ん中の部分、『Why・なぜ』が明確なんです。

子どもたちにサッカーを嫌いになってほしくない。
子ども達にサッカーを楽しんでもらいたい。
それが彼らサッカー系YouTuberの原動力です。じゃあ一方でJリーガーはゴールデンサークルの真ん中の部分に何があるのかという問いが生まれます。、『Why・なぜ』がJリーガーは意外と明確になっていません。もちろんサッカーがうまい、サッカーで選ばれてきている、という実力面では申し分ないです。
でも実力についてはゴールデンサークルでいうと一番外側『What』になるんです。じゃあ何故Jリーガーはサッカーをしているのか、何故そのチームを選んでそこにきたのか、という問いかけに瞬時に明確な答えを返すことができないのでは、と思います。
仮に答えを出せたとしても、周囲に伝わりにくいのではないでしょうか。『Why・なぜ』が明確で、YouTubeという媒体で表現方法を持っている Youtuberたちの方が人の心を打っているわけです。
その結果が「スパイク提供」という一つの形(結果)になっているんじゃないかなと、僕は考えています。

スポーツの価値とは『関わる人を笑顔にすること』

では『スポーツの価値』とは何か。
やはり「見られてナンボ」の世界ですし、PVも大事なファクターです。ただ見られること以上にいろんな価値が増えてきています。実際にお客さんとの接点だったり企業のブランドや社会貢献、収益の向上といった所です。さらには採用面でも価値があるでしょう。スポーツの価値というのは多岐にわたって広がってきています。

Jリーグは「日本で一番地域を愛するプロサッカーリーグになりたい」という言葉を掲げて地域と自分たちのクラブが持つリソースを掛け合わせて、さまざまなものを実現でき始めてきているリーグです。

地域名+愛称がポイントです。プロ野球に対抗してできたリーグということもあって「企業名を入れちゃいけない」とか「地域名+愛称」ということにこだわってやっているのも、地域とチームがつながることを目指したスポーツクラブだからこそであり、非常に面白いリーグなのかなと 思います。
やはり地域密着を目指した健全経営をどこまで追いかけて行けるかが今後Jリーグのテーマになるかなと思いながら、今僕は、それを淡路島でトライしています。
僕が好きな言葉に川崎フロンターレの、日本代表でもあった中村憲剛選手の言葉があります。

『僕はフロンターレで学んだことがあります。Jリーガーはお金を稼いでいい車に乗っていいものを食べて、サッカーをすればいいと思っていました。
だけどこのクラブに入って、そうじゃないことに気づかせてもらいました。
地域密着、川崎市の皆さんを笑顔に、元気にするという合言葉を持ったクラブに入ったことで多くの方と接し多くの学び、何より僕自身が皆さんと触れ合うことを楽しみにしていました』スポーツチームの経営の肝は、中村選手のこの言葉に凝縮されているな、と思いました。
だからフロンターレはあれほどまでに地域を巻き込んだチームになれたんだと思ったんです。もともと強かったクラブじゃないですし、地域ももともとヴェルディ川崎というチームがありました。そのなかで、後発でできたクラブがここまで大きくなったのは、彼のようにゴールデンサークルの真ん中の部分、クラブが背負う真ん中の部分『Why・なぜ』を理解して、ピッチで表現することができた選手がいたからこそ、こういう世界観を持ったクラブに なったんじゃないかなと改めてすごく思います。

沖縄にオリオンビールという会社があります。オリオンビールの事例にも僕は沖縄時代にたくさん学ばせていただきました。
沖縄のオリオンビールは、『沖縄県民に愛されるかどうか』が、彼らの真ん中にあります。沖縄の人口は140万人ぐらいで、観光客が1000万人ぐらい来ます。観光客の方がお財布の紐が緩いので、オリオンビールに限らずさまざまな産業において県民の方を向くよりも、観光客を狙いに行った方が良さそうに一見、思えるわけです。
しかしオリオンビールが狙っているのは、地元の人に支持されることです。オリオンビールの社長が言っていたのは「沖縄のオリオンビールが観光客に手に取られる前提にあるのは、地元の人に愛されているからだ」です。『Why・なぜ』が明確で真ん中にあるからこそ。 観光客が手に取るんだというわけです。納得するしかありませんでした。クラブが大切にしなきゃいけない人たちは誰なのか、ということを考えるきっかけになりましたね。
だからこそオリオンビールは、沖縄県が抱える社会課題、例えばキャリアや海の汚れ、首里城、などの課題に関してものすごく力を入れているわけです。なぜそこまで注力するのか、というと、沖縄の人が大事にしている存在だから、オリオンビールも大事にしなきゃいけないんだ、というわけです。僕はいろんな業種の出会いも含めて、地域に愛されること、地域を大事にすることの意味を、学ばせてもらいました。

こちらは「全島エイサーまつり」という沖縄県が誇るお祭りの写真です。3日で沖縄市のコザに35万人を動員するお祭りになります。
2019年の8月にFC琉球は最多動員を記録する試合がありました。対戦相手は横浜FCでした。そのときFC琉球に小野伸二が加入しました。片や横浜FCには中村俊輔が加入したんです。その同じタイミングでそのふたりがJ2のピッチで戦うことになったために、大きな話題になったんです。前年までの平均動員数が3000人くらいだったところ、小野伸二と中村俊輔の試合を見たさに1万2千人が入りました。満員御礼です。立ち見も出るし、外のビールも売り切れ続出みたいな「お祭り騒ぎ」になりました。
「こんなことがあるんだ」という感覚でしたね。僕も当時社長だったので、ちょっと偉そうにあのピッチの近くから満員のスタジアムを見てみました。満員にするために何ができるかってことを常に考えていたからです。そのとき僕は「満員なのに、スタジアムの熱量はピークではないな」と感じたんです。どちらかというとふわっとしていて「満員にしたのに迫力に欠けるな」と感じたんです。
残り試合15分ぐらいになって、小野伸二選手が試合に出た時にようやくなんかスタジアム全体が小野伸二選手に向いたなって言う感覚がありましたが、やはり「どこか物足りない」という感覚が残っていました。
その1週間後にこの全島エイサーというお祭りがあったわけです。3日で35万人動員しているお祭りで踊りを踊っている人たちは地元の青年団の方で別に選手でもなんでもありません。一般の方々がやられているわけですが、そこはやっぱり今まで僕が見たことのない三世代で集まってきたり、外国の方や観光客などいろんな方が来て、地元の人が大事にしているものに対していろんな人が集まっているんだ、という光景を目のあたりにしました。
フィナーレは僕がサッカーで演出したかったような迫力や熱量を感じました。「こうやってスポーツの価値を特に僕が好きなサッカーで表現できたら、とんでもないスタジアムの迫力が生まれるだろうな」と 思いました。
だからこそこの全島エイサーで感じた経験は、今も僕の中に強く残っています。

『この島と夢をみよう』その言葉が示す未来とは

今僕は『この島と夢を見よう』というキャッチコピーを掲げて淡路島で活動しています。僕らはJリーグでもなんでもなくて、地域リーグといういわゆるJ5ぐらいのカテゴリーに所属しているクラブです。

僕らが掲げているのは『淡路島のシンボルになる』です。淡路島は「今来てる」といわれる地域です。観光客も実は1000万人ぐらい入ってきていて、週末のホテルも満員です。ただ地元淡路島の人は「淡路島には何もない」と言われることが多いんです。高校生は「すぐにでも島を出て行きたい」と言ってるんです。大学がない、という地理的条件の制約もありますが、観光客の多さと地元の人たちの地元に対する評価にギャップが生まれているわけです。
僕は移住して淡路島に入ってきた身なので、特に強くそのギャップを感じるのかもしれません。だからこそ淡路島のシンボル的な存在が必要なのではないか、と思っています。
沖縄で言うとオリオンビールだったり、安室奈美恵、SPEED、DA PUMP、首里城などいろんなものがありますが、淡路島になかなかそこまでぐっとくるもの、心の真ん中に来るようなものがないために、僕らがサッカーを通じて、そういう世界観を表現することがこの島にとってすごい大事なことなんじゃないか、と考えるようになりました。
「この島と夢を見よう」という言葉が、地域の活力になり、子供たちの晴れ舞台を作ることを僕らができたら、島にとってものすごい価値になるだろうなと、思いながら、今活動しています。

こうやってイベントをやったり、淡路島にある三つの市の市長が揃って僕らのクラブを応援してくれたり、少しずつ行政や地元の方々が応援してくれるような存在になってきました。

FC.AWJの『淡路島に愛される場所作り』チャレンジ

僕らFC.AWJが行っているチャレンジは『淡路島に愛される場所作り』です。

もちろんサッカーでの勝ち負けにはこだわる必要があります。それ以外に僕らがチャレンジしているのは、淡路島に愛される場所を作ることです。ハード面、ソフト面、両面あると思います。その一つが「拠点整備」。

この写真はいわきFCという最近、J2に上がったチームの施設です。彼らはハード(設備・施設面)を整えることによって、クラブづくりをしたわけです。

もちろん僕らもこういう風に今拠点整備を図っている部分もあります。施設を作ることもすごく大事なファクターかなと思いながらやっています。ただ僕はスポンサー収入に頼るのではなく、自分たちで事業を持つことが重要だと考えています。

どのような事業をどう運営して行くかは、ブレてはいけないなと思っています。淡路島のいろんなものを盛り上げることができるかどうかが非常に大事になります。

この右上の「HANARE」、洲本城跡本丸売店運営事業は始めたばかりの事業です。洲本城という歴史的に名のあるお城が淡路島にあって、頂上の横の売店の運営を市から委託されて僕らがやっています。
そこも地元の方々からは「なんでお前、そんなとこでやるんだよ」とか「そんなとこ誰も来ねーよ」と言われることがあります。でも事業を始めて以来、めちゃめちゃ人が来ているんですよね。実は地元の人も結構来ています。散歩コースになっていたり、その商店街から頂上まで歩いて20~30分で行けるので、地元の人の健康のための散歩コースだったりするわけです。でも平気で「そんな場所」とか「そんなとこ誰も来ねーよ」とか言っちゃう場所になっています。 「淡路島に愛される場所作り」というテーマにおいては、ここを盛り上げていくことを非常にチャレンジで面白いなと思っています。

さらに淡路島の「コモード」という商店街。写真を撮影した日はお祭りの日だったので、人出が多いようにみえますが、平日は人がいなくて、ガラガラです。金曜日の夜でも本当に真夜中のように人がいません。
ただしここは淡路島にとってすごく大事な商店街なんです。50年くらい前までさかのぼると、この商店街に行けばなんでも揃う、週末は原宿か、というレベルで人が集まって来ていたんです。30年前ぐらいに近くにイオンができた瞬間に、閑散としてしまいました。典型的な衰退をたどっている商店街といえます。

そこで今、僕らは地元の活性化を含めて、その商店街と一緒にプロジェクトを作っています。地域を盛り上げることが、淡路島の心臓部分になる。それが僕らにできることなんじゃないかなと思っています。商店街の物件の中に僕らがただの事務所じゃなくて、地域の人が集まる場所を作って、人が交流して人が来て、といったことができることなんじゃないかなって思うわけです。

今エンドラインの山本さんに協力していただいているところですが、例えばこういうふうに「この島と夢を見よう」という横断幕や垂れ幕を掲げることによって、地域の人に視覚的な部分からアプローチすると、みんなが今「ダサイ」とか「行きたくない」と言っている場所に、こういうビジュアル的な変化を起こし、僕らみたいな若い人材がかかわることによって、地域に「あ、こんな晴れ舞台があるんだ」「こんなきっかけがあるんだ」と思わせることができるんじゃないか、と思っています。
だからこそクラブは、ただ地域に寄り添うのではなくこうしたビジュアル面の変化やいろんな仕掛けをもって、いろんな関わりを作っていくことが大きなテーマになる、ゴールデンサークルの真ん中の次にある『How・どうやって』の部分になると思います。
どうやってやるのかは、地域やチームの事情によって変わっていいんです。僕らサッカークラブですが、商店街であったり洲本城という城だったりします。地域との関わりかたはそれぞれです。ただ真ん中にある『この島と夢を見よう』と言う言葉、淡路島に愛される場所を作るのが一切変わらなければ、いろんな手法があってもいいのかなと思っています。

スポーツクラブの使命は『地元の人が地元を愛するきっかけ作り』である

最後にプレシーズンマッチの前にあった結団式の様子をご紹介します。
洲本市で一番大きなホールで500名ぐらいの方に来ていただきました。真ん中に座っているのは、淡路島を構成する3市の市長さんたちです。イベントを盛り上げていこうということで参加していただきました。
地域クラブでこれだけの人数を集めるのもなかなかない事例だなと思いながらも、僕らが掲げているものや、「淡路島にもこんな晴れ舞台があるんだ」と言うことを、子供たちに知ってもらうことも大きな機会になると思っています。
高校生たちが「早く出て行きたい」とか、「今この島には何もない」と言う前に、こうして淡路島に晴れ舞台を作っていくことが、僕らスポーツクラブに課せられた使命なのかなと思いながらやっています。
どんなことをしてもいいと思いますし、どうやってやってもいいんです。ただ行動の真ん中にある「思い」がどういうものなのか、「思い」をどういうふうに伝えていくのかが、結局あの今日のテーマである集客や営業につながっていくのかと思います。 「思い」が相手に伝わらない限りは、上辺だけで捉えられてしまいます。上辺はごく一部に過ぎません。上辺だけ伝えようとしても、なかなかスタジアムの熱量にはつながらないのです。
タレントや「何か」だけを見に来た人は、スタジアムの熱量を作りにくいものです。ただ、沖縄はじめ、地域を盛り上げるんだというクラブの情熱を理解して、スタジアムに来てくれた方々が作る熱量は、誰が何しようと関係なくスタジアムの熱量を作ることができるんだ、ということを学ばせてもらいつつ、僕は淡路島でさらにそのチャレンジを続けています。

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